昔のゲーマー気質が悲鳴をあげてる、ような

ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題

基本無料とゲームの難易度

上の記事は両方共おっしゃる通りだなー、と思います。というのをまず前提に置きまして。

「高コスト」というのは「舞台装置」であり、アケゲー辛いというのは舞台に上がれる余力がなくなりました、ということなんだと考えれば、一つ目の記事の話は「なんだ辛くなったのか」と老兵を惜しむ話に他なりません。ソシャゲーのコンテクストと見せかけて「オレは歳食いました」と言ってます。アーケード、潰れると思って実際数減ってるけどとりあえずKONAMIの収益その部門の収益、あんま減ってなかった印象。上のコンテクストなら産業がすり減って消滅する、みたいな世界観で語っても良いと思うんですが、ゲーセンは減りつつ死んでないんですよね、全く。でもなんでなんだろ

難易度についてはSIRENが1難易度で演出込みという部分があったのをSIREN 2でNORMAL入れて楽すぎて怖くなくなかったことを思い出します。ただ、総じてゲームの難易度は単にその開発過程で勝手にごっそごそ上がっていき「オレの難易度」は開発者がカジュアルにプレイ出来る程度でつまりタバスコ3本入ってますみたいな出来に、実態ではなってたりしなかったか、とも思います。

ゲームが他の芸術作品のように製作者の意図の中で完成されてると仮定すると、難易度は一つであり、それは一流シェフの一品の自由度のない洗練さを備えるでしょうね。でも、完成されたゲームなんてあんまり見て来なかった気がするんです。むしろ私の経験上、ゲームというのは与えられた難易度群、与えられたバグ、与えられた萌要素を勝手に組み合わせて極北に向かいたければそうするという、そういう芸術作品として見てきた方が多いです。FF5は普通にやると難易度的にはそこそこでしかない。一方青魔道士オンリーでやると力の塔がクリアできないのぐすん、というニコ動を見ると感動を覚えるのです。この前の黒川塾もそういうゲーマーとのインタラクションに話題が登っていた気がします。ゲームはユーザと製作者のインタラクションにも重要な要素があるんだ、っつーことです。だったら難易度は多くあって良いし、課金したいやつと課金したくないやつを差別化して何もわるいこたぁない。

製作者が意図して一つの完成された構造を提供するんじゃなくて、ブレる構造そのものがゲームの完成形なんじゃねーの、と思うです。ボクはDDRそこそこやってますが、当初の製作者がきっと持ってたダンスさせたいなんて作品意図はどうでもよい。ジタバタが許されてる結果としてマッチョが汗かいてヒーハー苦しんでるのを見たりするのが良いのです。幸い今はダンエボあるので踊るならそっちでやります。まーたFLOWER

感想終わり

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