正論

正論をぶちまけて相手が「こわーいなにあいつら」と言って、そのあと正論をぶちまいた側が「これには正しい理由がある」と説明する。ネットだとよく見る。

正論ぶちまける側のホントの精神モデルは、しばしば逆向きだと思う感じることが多い。

正しい理由があって、それに基づいて言っている「のではなくて」、最初に言った後に、後から自分たちを正当化するための言葉を探し出す。

実際に、自分を部分的に正当化するための筋の良い説明やドグマが見つかる。それによって「そ、そうだ、俺達はこれがあるからこのように過激な一言を言ったのだ」とする。私においても、自分が過激に相手を攻撃する際にはこのロジックが混じることがある。後になってからある種の正義の観点からは後悔することがある。

本当に正しい理由があり、正す正当性があるのであれば、怖がらせる前にもう一歩考えるべきだと感じられる。萎縮させる正当性まで考えて言っているのかは、一歩引いて考えるべき段階が存在しないか。

非常に卑怯だと思う人々の中には、最初攻撃的で、その後上の理屈を付けた後、自分が正しくないことがわかってきた時には自分が行った論法を相手が行うことを不服とする旨、非常に回りくどく言うというものがある。私自身がそういうことを何度か行なっているから、こういうときの気持ちの流れはよく分かる。ただ自分のそれも含め、それは単なる卑怯者の論理であり、ただしさとは遠いと思う。

正しく問題視的を行う人は、主語を明確にし、根拠と自分の負ける可能性を最初に出しているのではないか。何故問題かについて、自分の側から、自分の感情面を含む詳細な状況も含めて先に出し、議論の端緒であることも明かすのではないか。これは別に理論でもなく直感だが、そういう気がする。

すくなくとも、最初に自分の中にある周辺の情報を隠匿した状態で強く相手を叱責するかの如き問題指摘は、議論では、「技量」以上に非対称な関係を前提にしていると思う。正論を吐くジャイアンは多分ジャイアンだ。どうせ困ったらのび太のくせにって言い出して殴る。

正論好きのコミュ症を隠すために正論を後から述べる人と、正しく正論を追求する人では、語り口と逆向き論理の使い方は違うと思う。最初に相手につっかかる人に私が違和感を感じるのはこのあたりの印象による。

この文面は特定の事象に基づいて感じたことではない。苛烈に人を攻撃する人というのはいる。そのとき、自分が言っている通りのただしさを自分の内面に持っているか「チェックしたければすれば」程度のものだ。

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