「大統領の執事の涙」を見た

34年間をホワイトハウスの執事として生きたアフリカ系アメリカ人、言いかえれば「黒人執事」の物語。以下特にとりとめなく書く。

モデルとなる「黒人執事」は実際に存在し、(http://en.wikipedia.org/wiki/Eugene_Allen)、この映画のエピソードとも一部関係しているらしい。

映画の描くアメリカの様子は、有色人種が様々な形で迫害された時代から、オバマ大統領が生まれるまでの、短いような長いような30年超のアメリカ史に直結している。そのような激しい変化の中で、政治に一番近いのに遠い、ホワイトハウスの執事として務めた人物を題材として、公民権運動を映画化するという試み自体が面白いと思うし、内容も示唆深い。

素人目に言えば、この「黒人の執事」という組み合わせは、今も昔もおそらく普通なのだが、それでいて幾分独特の特性を持っているように見えた。「空気のように」その場にいて、大統領をも世話する中、政治には一切関与せず、当の黒人自体は国全体で迫害されるなかで、執事としては信頼はされている。同胞の評価は二分し、一方は面汚しと罵り、しかし一方は迫害される自分たちの地位を押し上げた誉れある職業だと評価する。

給与は白人に対して4割(だったかな)安かったようだ。外部ではKKKを始めとした粗敷による迫害や、その逆にキング牧師による運動が盛んだった時代を跨いでいる。その中で、ごく稀な例外のごとく、主人公はパリっとした服装でホワイトハウスという政治の象徴的場でアメリカの大統領に仕え、時には迫害される黒人として意見すら求められる。

なんとも微妙な立ち位置だ。給料は安いとはいえ、誉れ高く、しかし自分たちのコミュニティの権利を能動的に獲得するという活動に参加できる立場ではない。

物語ではそれぞれの時代を象徴する映像が登場人物と密接にリンクする形で登場する。主人公であるセシルの息子の一人はセシルとは対照的に公民権運動に積極的に関与する。その息子は逮捕されるというシーンがあるのだが、逮捕されるそのシーン自体は、実際のアメリカで起きた公民権運動のさなかの本物のニュース映像のようだ。

主人公の息子は二人いる。一人は公民権運動をした。一人はベトナム戦争で戦死した。いずれも、アメリカの波乱に飲み込まれているなか、ホワイトハウスの執事は関与出来ない。公民権運動にいたっては、職業をもらう執事という立場からすればうざったいとすら思われるもののように、物語では描かれる。事実、モデルの人物もそう思ったのかもしれない。

この「ホワイトハウスの黒人執事」という立ち位置は、少なくとも物語においては、確かに栄誉ある職業に見えるものの、どこかに「歪み」があるように、私には感じられた。一言で表せる単純な立ち位置ではないと思う。複数の意見があって行動がなされる中で、静観とも行動ともつかない「仕える」という立ち位置は、割と、独特だ。

勇者が正義を勝ち取ったというたぐいのものではない。堂々と立ち振る舞うものをあざ笑って結局本人に何も残らなかった、という傍観者の立場でもない。時代の中心にいて、いっときには使えた大統領が暗殺されるという事態すら目の当たりにしつつ、公民権運動自体には関われないが、その運動の結実としての大統領らの決断は真横で見ていたわけだ。

胸がすくような爽快な演出は何一つ無い。親を白人に殺された非白人の子供がホワイトハウスに勤め、最後にはじじいになってオバマの演説を見る話でしかない。ひたすら考えさせられる事象ではある。

ところで、こういった話を見るにあたって、アメリカ歴代大統領の業績について理解する必要があるのは、私にとっての難点だ。日本の歴代総理大臣だって覚えていないというのに。

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