Qiita雑感

自分が信頼していた英語教育者 (高校〜大学) の中に「英和辞典は上級者向け。初心者は英英辞典を引け」と主張されるものがあった。今振り返っても正しい主張だと思う。

一件矛盾はしているが、私の理解はこうだ。英和辞典からは本来の英単語、イディオムのニュアンスが抜け落ちることがとても多い。lookは「見る」、seeも「見る」、watchも「見る」と書かれているので、初心者なら「どれも見るなので同じか」と解釈するかもしれない。だが、ニュアンスは異なる。

英々辞典でそれが確実に起こらないわけではない。ただし、長々と1つの単語を別の(知らない可能性もある)単語列で説明され、脳の中に英語ベースでの推論と解釈が強制される。これが結局は効く。関連してシソーラスも手元に置く必要をやがて感じるだろう。

そして最後に「もう概ね類語も含めて知ってるよ。で、とりあえず英単語の候補だけ見たいんだけど?」という時に、最後に英和辞典が、日本語ネイティブにとっての最速の「キャッシュ」となる。この順序を間違えるな、というのが「英和辞典は上級者向け」の真意と私は解釈する。

Qiitaはその意味で「英和辞典」の性質が強い。なるほど日本語で記事が出てくる。だがその記事の「ニュアンス」たるやは如何に、といったとき、信頼の出来無いタグと、マイナス評価を受け付けないストック数による「ランキング」だけが頼りになる。そこから本質を引き出す仕事はQiitaでは出来ないことがしばしばである。

十分な練度の日本人技術者であれば、Qiitaと海外の資料をセットにして理解を高速化出来る。これは事実で、私もやる。一方、Qiitaの記事にはハズレがあり、ハズレのストック数が高くなるということもままある。

Qiita内での記事だけで理解を完結し得るだけの良質な記事を量産される技術者も多数いるのは、それもまた事実だ。一方閲覧者として見た場合、その人々がシグナルとして、S/N比のような観点から見ればQiita内の記事の状況は良いとは思えず、結局良質な記事も含めて「起点」以上にQiitaに期待できないマインドセットが出来上がる。

良質な記事を書かれる技術者においては、是非その記事自体から自身がリターンを得られる媒体を考えなおしていただいたほうが良いとすら思える。結果としてQiitaは視聴者目線で見て適正な水準のキャッシュとしてだけうまく機能するようになる。ストック数は一見すると自己承認欲求にうまく働きかけるが、月刊誌や書籍におけるそれや、単独ブログにおけるプレゼンスと比べると圧倒的な見劣りを感じざるを得ない。Qiitaにおいては真に良質な記事もそうでない記事も一律にQiitaによるおすすめ度になり、筆者名は画面の右端に陳列されるおまけに格下げされている印象すらある。

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