危機管理について思うこと
最近某所で「もわもわさんは若干楽観バイアスが強すぎるところがある」なんて指摘を受けた。個人的には「不愉快」と言って良いクラスで的外れなコメントだと思った。その人が知らないことについて余りに無警戒であったものだから。
まず、楽観バイアスがあるかないかは、私からは評価できない。そこはおいておきたい(事実、知っていることに対する警戒レベルは、そのコメントをした人は一般的な推奨水準か、それ以上だと思う。おそらく、防災の観点で言うなら、十分立派だ)
一方で、私が思うには、多くの人が「知っていることを過度に心配しすぎ、知らないことをあまりにも無視しすぎる」傾向が強い(のであろう)と憶測している。ゆえ、「知っていることを心配しすぎず、知らないことに警戒する」傾向を意図的に強めている、が私の一応私の自己認識だ。
上の人に限らず、一般的に世間を見るに「知らないこと」に対する警戒心の薄さは余りにまずいレベルにあると思う。それは、多くの進歩があったからゆえなんだとも思う。科学が進歩すれば、いろいろなものが予測可能になる、世の中が明るくなる、現に明るくなっている、そういう言説は多く、根拠もある。まずい根拠がもしあれば、それは改善対象になるのである。
問題は「わからないことをあぶり出す」能力は人類としてそこまで高まっていないというところかなと思う。あるいは「分からない領域がどのくらい残っているか」を謙虚に検討する能力とでも言おうか。
片側では「進捗がある」一方で片側は「進捗のあるなしが分からない」。こういうときに後者ばかり強調するのが「陰謀論」という考え方は分からないでもない。
「分からないことには押し黙る」は間違っていない。問題は「分からないことはないものとして扱う」ことの恐ろしさの方だ。
私が嫌いな概念の一つが「最新の科学」という表現。単に「我々は思っていたより一層無知だった」と言うべきなのではないだろうか。進歩を強調すると、傲慢に見えるのだ。
統計とか定量的に把握したわけでは決してないが、次のように思う。そこそこの準備をしてしまった前提で言えば、「思っていたことが思った通りに問題となる」ことよりも、「思ってもみなかったことが思っていたことよりも遥かに頻繁に起こる」ようになる。探索空間が広すぎて、探索的にもチェックリスト的にも抑えられない不可視の問題が現れ、合理的ないかなる論理的な思考も効果が十分得られる段階を過ぎてしまう。単なる進化論的な淘汰(言い換えると大量のモンテカルロ的な試行)でないと先に進めない、つまり人間には到達不可能な範囲の問題解決がある、少なくともあり得る。その手前に、比較的狭い範囲ではるが、演繹とも帰納とも若干違う危機管理の総合的な体制がある、少なくともあり得る。
所詮は「反脆弱性」の検討とほとんど同じ道筋なのだが、ただ個人的には「頑健(ロバスト)」と「反脆弱」の間にもう少しだけ抑えられる領域がある、とは思う。意図的な小規模の失敗、もしくは小規模の山林火災による「本来脆弱な性質に反脆弱の性質をあとづけする」というあとづけの手法が。
冒頭の話に戻ると、どう対策を立てても脆弱なものに脆弱な状況をそのままに無意味なレイヤを積み重ねて「安全」を騙る人が、上のような議論に基づいて「もう少し別の路線で稼いだほうがまだ得られるものが多い」と考える人に表層的な野暮なコメントを入れてくる、というのが微妙に腹が立つのだった。ただ、伝えるべき物事が私も明確ではないので、強いてそういう論戦に火を付ける、というのもやはり同様かそれ以上に野暮なので、なんともいたしかたがない。