ふたつの「褒める」

 給与とか評価とか信頼度という観点で見たとき、「褒める」に少なくとも2種類ある

一つは「格下への評価」。「格下」とは言い方は悪いものの、好意的な評価であることに違いはない。もう一つは「同格以上への評価」。

これらの2つを取り違える好例の一つは「部下を褒める」という慣行ではないかと思う。正確に言えば部下と上司の関係は格上・格下とちょっと違うのだが、ここでは「スキル面で格上の上司が部下を褒める」というケースを言っていると思って欲しい。

このエントリでは、この2つを混同する中でも、仕事上ありがちでまずい失敗について主に取り扱う。この「褒める」が「同格であることの証左」と部下側で勘違いすることだ。そういった勘違いをすると「褒められたから昇進する」と勘違いすることがある。こういう捉えられ方をすると二者の関係はひどくゴタゴタする印象がある。

ここでは上司側の対処法は検討しない。代わりに、部下サイドにこの二種類の「褒め」には質的な違いが少なくともある、ということは認識しておいてほしいと思って書くことにした。

「格下」への褒め、はあくまで格下へのモチベーション付けや教育という成果を目論む魂胆がある。悪意があるわけではない。ただし「称賛」というよりも「評価」であり「フィードバック」である。あるいは「続行せよ」というシグナルの比率が大きい。

同格に対して同じ「褒め」を実行することは通常ない。それは馬鹿にしていることになるからだ。「出社できた、偉い!」という「褒め」がある程度ジョークとして成立するには「本当はそのくらいのことで褒められる筋合いはない」という意識が含まれている。不登校児が登校できた、偉いのはわかるが、いつも登校している児童について言うまでもない。

この「格下」への「褒め」がされるということは、ある意味では「同格以上としての評価の土壌にない」ことを暗に意味している。

ある意味「英語、お上手ですね」とネイティブスピーカーに褒められるのと似ている。本当にネイティブだという認識を相手が持ったらこの言葉は(多様性が十分であれば)基本的に出てこない。

ゆえ、自身の「格」を組織や相対する相手に大して上げたいと思う場合、この手の「褒め」には、(表面的に礼をするのはもちろんなのだが)少なくとも満足しないほうが良い。

このエントリを思いついたきっかけは「上司に褒められている」と満足げに語り、グレードや給与が特段上がっているように見えない人を目にしたからだ。この「褒められ」を過度に自尊感情に紐づけると、おそらくは成長が止まる。

例えば、社内の格という意味ではキャリアラダー上のグレードといったものがある。それに依存して給与を上げたい場合を想定してみる。「格下への褒め」が上司からされるようなら、少なくとも上司と同格であるには不足している要素がまだある、場合によっては相当ある、と判断するべきだろう。重要なのは「格を上げるための要素の獲得」なのだが、そのフィードバックにはなっていない(その意図も上司にはない)。「賛美のサンドイッチ」の賛美部分だけ切り抜かれても困る。

念の為書いておくが、皮肉に捉えないことも当然に注意しよう。相手は意識的だろうが無意識だろうが「褒めて」いるのだから、それをもって「自分を格下とみなしている」という感想を、当の格下と見られている相手に対して不服と表明するのは問題がある。大抵は全く別の評価軸で「稚拙」に捉えられる可能性が高い(概ね「人間性」に紐づくだろう。これはスキル云々で下方修正されるよりもかなり厄介なことになる)。ここでの「格下」「同格以上」の判断は自分の中での仮説と見るべきものだ。

自分から見て「格上」から褒められたら即、自分が「格下」と「舐められている」と考えるのも不適切なことは多々ある。たいていの善意ある上司は部下を舐めているわけではない。そんなウェットな上司は私としてはバカらしい。

別の勘違いも有り得る。ある分野のプロゲーマーがその分野の他の人に「上手いですね」と言われたとしよう。プロゲーマーがその人を舐めている可能性、はある。ただ、例えば単純に「あるハードルを超えている上位プレイヤーである」と褒めるケースもある。


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