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1月, 2024の投稿を表示しています

振り返ってみると後付説明が出来るが、先行する判断としても説明無しに妥当なパターンがある、という話

 一言で言い表す言葉がないので冗長に書いとくとこう。 ある部下を評価する際に「良い」「普通」「悪い」のどの説明も出来てしまうケースがある。こういう場合、通常は「良い」とするには交渉リソースを使うので大抵は「普通」にしてしまえるし、あるいは他のケースを優先するために「悪い」と出来てしまうことすらある。これも受け手としてはすごいアンフェアなことなのだが「ある」とはまず主張しておく。 この際、「普通」とすることに対して上方(つまり評価する上のレイヤ)に対する交渉リソースの消費は抑えられるため、特に良く吟味しない場合は「普通」に倒れがちだと思う。 ある時「自分は良い、じゃないと不服だ。辞めるわけではないがそう主張しておく」という話をしてきた部下がいるとする。自分からするとこれは若干めんどくさい。熟考するべき案件かもしれない。 ただあるときにこういうことがあった。ふと、特に深く考えずとも「良い、としても良いんじゃないか」と感じ、特に深追いせずに判断を「良い」としたことがある。そもそも最初の3択が任意で変えられることも一見不条理だが、それに加えてこの判断変更もある意味不条理だ。私は真面目に評価していないようにも見える。その時は事実自分でもこの2つの論点で「なんだこれ」と思ったものだ。 ただ振り返って考えた際には筋が通っていた。この評価変更の三択は選択肢としては有り得るし、その中で「良い」を選択するのはある観点で最良なのであった(別の観点ではそうではない) 後付けで言える主張はこうだ。その「不服」の背景は「より多く難しい仕事をしたから」であった。私が「普通」とすることでそれは今後、下手をするとその相手に対する普通のことになる。これは実際のところ私にとっても面倒なことだ。私も手伝うからだ。 「普通」の選択肢の良い点は、これが「自分の中でのその人の評価」に最も近いことによる。手伝わされているし、尻拭いも一部する必要がある。プラスはあった、ただし足も引っ張られていたところを見ている。プラスとマイナスでうちけすとゼロ。 ここで「良い」の評価を下すと、社内においては話が変わる部分が出てくる。まず短いスパンではその評価対象に報いる事ができる(離職リスクは低い方向にいくと予想される)。深い意味では、その相手は社内の等級的な枠で昇進する。そして私は手伝う必要が減少する。上の等級なら「普通...

日本語は滅びるかもな、と思った

 人はいずれ死ぬのです……じゃなくて、現代の人が想定しているよりも早く日本語が劣化して実用というよりは文化的な側面でキツくなるかもな、という話 機械翻訳が「まぁまぁ」になっていて、日本人が翻訳とかに対して相対的にパブリッシャーに金を払えない構図が出来てきています。すると、人の手で調整された「高級な」翻訳については今後「絞られ」ていくことになるかなと。日本初海外の作品の海外語には当然されるとして、逆は徐々に減っていくはずです。 やだー! https://twitter.com/rakuichirakuthe/status/1743035039724822680 https://twitter.com/alphabill/status/1743697852193497154 そうすると、例えば「後継者のいない伝統工芸」と同じ方向に日本語全体の文化的な部分が降りていくんだろうなー、とふと思ったわけ。 もちろん文化というのは変化するものなので、言葉も変化はするはずです。ただ、変化の先に、今は人手の介入を若干離れた壊れ気味の言葉(と、壊れ気味の発音)が混ざりますし、一度混ざればなんやかんやで人と機械が学習する際にもそれを基に構築されるのかなと。翻訳等をし易い言葉が残るでしょうし、翻訳を拒絶する単語・構造はまずは論理的な文脈から逆に採択されないはずです。 私が読む普段のニュース記事とか技術文書とか、やたら「読みやすさ」を強調する傾向が強まっていて、サイクリック・循環する感じでその主張が強まっている印象あります。要点なぁに、まぁわかるんですが、行間というか、個性というか、そういうのが死んでいて、主張がゾンビみたいに歩き回っているのを見る機会が増えた印象も同時にあります。主張が単層的なので、多分ですが英語で読んでもこれ苦にならんです。「読みやすさ」を重視する文なら日本語そんなに強い言語じゃないじゃん 日本語にオリジナルの情報がなくなる、とは言いませんが、それ以外の派生がすごく先細るし、現状ではもともとの直近の言語ストックをかなり強くフィードバックする傾向ばかりが進行していて、戻る事はおそらくないです(レコードブームくらいの戻り方はするだろうけど)。すると、「日本語である理由」はそこに囚われている人の相対的には貧困なコンテクストの中に閉じ込められるのかな、と。ほとんど「方言」...

危機管理について思うこと

 最近某所で「もわもわさんは若干楽観バイアスが強すぎるところがある」なんて指摘を受けた。個人的には「不愉快」と言って良いクラスで的外れなコメントだと思った。その人が知らないことについて余りに無警戒であったものだから。 まず、楽観バイアスがあるかないかは、私からは 評価できない 。そこはおいておきたい(事実、知っていることに対する警戒レベルは、そのコメントをした人は一般的な推奨水準か、それ以上だと思う。おそらく、防災の観点で言うなら、十分立派だ) 一方で、私が思うには、多くの人が「知っていることを過度に心配しすぎ、知らないことを あまりにも 無視しすぎる」傾向が強い( のであろう )と 憶測 している。ゆえ、「知っていることを心配しすぎず、知らないことに警戒する」傾向を意図的に強めている、が私の 一応 私の自己認識だ。 上の人に限らず、一般的に世間を見るに「知らないこと」に対する警戒心の薄さは余りにまずいレベルにあると思う。それは、多くの進歩があったからゆえなんだとも思う。科学が進歩すれば、いろいろなものが予測可能になる、世の中が明るくなる、現に明るくなっている、そういう言説は多く、根拠もある。まずい根拠がもしあれば、それは改善対象になるのである。 問題は「わからないことをあぶり出す」能力は人類としてそこまで高まっていないというところかなと思う。あるいは「分からない領域がどのくらい残っているか」を謙虚に検討する能力とでも言おうか。 片側では「進捗がある」一方で片側は「進捗のあるなしが分からない」。こういうときに後者ばかり強調するのが「陰謀論」という考え方は分からないでもない。 「分からないことには押し黙る」は間違っていない。問題は「分からないことはないものとして扱う」ことの恐ろしさの方だ。 私が嫌いな概念の一つが「最新の科学」という表現。単に「我々は思っていたより一層無知だった」と言うべきなのではないだろうか。進歩を強調すると、傲慢に見えるのだ。 統計とか定量的に把握したわけでは決してないが、次のように思う。そこそこの準備をしてしまった前提で言えば、「思っていたことが思った通りに問題となる」ことよりも、「思ってもみなかったことが思っていたことよりも遥かに頻繁に起こる」ようになる。探索空間が広すぎて、探索的にもチェックリスト的にも抑えられない不可視の問題が現れ、...

ふたつの「褒める」

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 給与とか評価とか信頼度という観点で見たとき、「褒める」に少なくとも2種類ある 一つは「格下への評価」。「格下」とは言い方は悪いものの、好意的な評価であることに違いはない。もう一つは「同格以上への評価」。 これらの2つを取り違える好例の一つは「部下を褒める」という慣行ではないかと思う。正確に言えば部下と上司の関係は格上・格下とちょっと違うのだが、ここでは「スキル面で格上の上司が部下を褒める」というケースを言っていると思って欲しい。 このエントリでは、この2つを混同する中でも、仕事上ありがちでまずい失敗について主に取り扱う。この「褒める」が「同格であることの証左」と部下側で勘違いすることだ。そういった勘違いをすると「褒められたから昇進する」と勘違いすることがある。こういう捉えられ方をすると二者の関係はひどくゴタゴタする印象がある。 ここでは上司側の対処法は検討しない。代わりに、部下サイドにこの二種類の「褒め」には質的な違いが少なくともある、ということは認識しておいてほしいと思って書くことにした。 「格下」への褒め、はあくまで格下へのモチベーション付けや教育という成果を目論む魂胆がある。悪意があるわけではない。ただし「称賛」というよりも「評価」であり「フィードバック」である。あるいは「続行せよ」というシグナルの比率が大きい。 同格に対して同じ「褒め」を実行することは通常ない。それは馬鹿にしていることになるからだ。「出社できた、偉い!」という「褒め」がある程度ジョークとして成立するには「本当はそのくらいのことで褒められる筋合いはない」という意識が含まれている。不登校児が登校できた、偉いのはわかるが、いつも登校している児童について言うまでもない。 この「格下」への「褒め」がされるということは、ある意味では「同格以上としての評価の土壌にない」ことを暗に意味している。 ある意味「英語、お上手ですね」とネイティブスピーカーに褒められるのと似ている。本当にネイティブだという認識を相手が持ったらこの言葉は(多様性が十分であれば)基本的に出てこない。 ゆえ、自身の「格」を組織や相対する相手に大して上げたいと思う場合、この手の「褒め」には、(表面的に礼をするのはもちろんなのだが)少なくとも満足しないほうが良い。 このエントリを思いついたきっかけは「上司に褒められている」と満足げに...

2024年の抱負を書いてみることにした

 毎年振り返れてないんよ! 大テーマ 50歳くらいに向けた方向性を考えて準備していく 小テーマ 体重を65kgまで(健康的に)減らす 手段はDDRでも良いよ 仕事に依存しない「人生でやりたいこと」を考えてみる 守りに使える横の知識を増やす 数学・統計の資格(以前と同じ) 「横」の資格(システム監査技術者とか) クラウドとかの資格(主戦力を若干可視化できるような感じ) 日々を(もう少し)記録する 以下雑文 40代も40代だし、50〜60代に何をやってるかなー(生きてたとして)、とか考えることが特に2023年年末は多かった。そろそろ終活のシーズンなんよ(早) 終活のシーズンにDDRやるかなー …… 「健康のため、みたいのはまぁいいんだけど、流石に動き方ちょっと雑すぎないかなー」とか思うことが2023年は多かった。というかあんまり冷静に考えて動ける感じじゃなかったんよ。 冷静に考えて動ける感じじゃないときにはDDRは都合いいなぁ。なにせ何だかんだで一度登った山って部分が多いからね。あと、若い時との差分が描き出せるので冷静に年食った段階との差分の分析は興味深い。なお、差分の分析自体は楽しいわけではないよ。なんせ無茶が出来ないって話が基本なんで老化を実感するだけなんだ。 「マネジメントとか色々わかってきたけど、んで、それをどうその後に結びつけます?」みたいなことを考える段階になってきた気がする。もう少しゆっくり考えていく想定だったんだけど、マネージャ方向が自分の想定より数年早く「あー、出来るな」と思えてしまった部分があって、一歩展開が早くなった。これは喜ばしい気がする。 日本帰ってきてから数年の不安・心配は「実践で役に立つプレイヤーになれるか」とか「もともとのマネジメント志向に転じられるか」みたいな話だったはず。特に2022年〜2023年はこの観点では大豊作だったのだ。 客観的に社会的に見える大きな成果、というのはそんなになかった、どころか、「なんか出来てるだけでこれ人生満足できるやつじゃないな?」と思う感じが強くなってきた。ちょっと他責っぽくてしょーもないんだけど、流石に「それはなくない???」っていう自分の外側のムーブメントが気になってしまうようになった。 あと、規模的にマネジメントの対象は「小さすぎる」とは思う。複雑度は相当高いと自負出来るんだけど、やはり一般的...