最近のメモ
需要に関係なく書いとくこともあるんだ
○ やけに彼女が欲しい云々うるさい
根本的な原因は「私は人並みの生活を送れてるでしょうか」という、ある意味での自己受容の問題なんだと思ってる。
私は自分に自信をもつことがあまりないから、歪な自己評価がそのまま対人関係を始めとする方向での不備と組み合わさって、こういう(彼女とかいう)話に対する落ち着きが無いという結果になるのだと思っている。
○ 簿記がやばい。原因は本業だ
3級と同じテンポ感で動かしてたのだが、2級というのは分量約2倍で、年齢もあるのだが忘れる速度もそれなりに早く、だから復習もあまり進まず、という循環が起きている。目標2月に実戦形式だったところ、まだ復習1周めが半分か。やばいなぁ。
受けるよー、という話をしたらどうにもうちの姉であるとかは、こういう試験に限っては私が「落ちるほうが驚くわー」という反応をすることが多く、割と困る。落ちるときはおちるんだぜ。
何が問題かというと案外最近本業の方でヤバイ件を最優先で処理していたからで、そちらがテンポ的に予定より少し早い感じで進んだ壮大な犠牲として他の、こういった下準備的なものが遅れた。
○ 本当の課題は営業
最初の件と同様、一人前感のなさがコンプレックスを形成するというのが私の人生の大方のパターンで、最近比較的恐ろしいのは営業出来ない自分という話のようだ。
いや、ま、例えば人と会うことが全体として営業であるというのはあるんだけど、例えば自分がやっている仕事が潜在的なお客さんにどう良い影響を与えうるかとか、そういうことをそれとなく伝える能力がゼロ。金を奪うという意味における営業の話をしたいわけではない。自分がやっていることを適切な強度で伝えるという能力がないか、足りない。結果として、オーバースペックな期待を勝手に持たれるか、何もないか、に終わる。
○ 余裕をもつべきなのだが
某氏 (男) を飯に誘うというのがあったとき、ふと「このテンションで女性を誘えるだろうか?」という問を自分でしかけて見込みが薄いのを再確認した。
何が問題かというと、上記に関係してかなり気負う性分が強いのがまずいんだと思う。何があるというわけでもなく。仮にやったとして、見た目だいぶ落ち着きが無いように見えるに違いない。それは誰にとっても高評価にはなるまい。
このあたりは「何故」を繰り返せば何がまずいのかわかるはずだし対策のようなものもありえるだろうが。
○ そう自分で考えるほど酷い戦績ではないはずだが
最大の問題は自己評価が低いから評点付けるとマイナスウン十万点になるというところなんだろうと思う。「そこまでひどくないよw」と言われるくらい自分で自分の採点つけるとすごいことになるらしい。それでは(売り込む性質の)営業は無理だ、という話になる。でも営業的なコンテクストで、害悪としてでなくうまく自分の能力を売り込む性質は結局単体で仕事を取り込むには必要だから、どうにかするしかない。
○ というか良い会社を辞めちゃったじゃないか
そんな能力がなくてもうまくいくという状態を自分で離れて何を言ってるんだろうね。
すごいジレンマは、私の考えだと前職では自分が望んだ全体像にまず到達し得ないという気分になってしまったことなんだろうな。悪い言い方をすれば、スペシャリストというのは必ずある種いびつなんだということに、そっけなくいられるかいられないか、というのが重要で、結果としてその場所に長く留まるのに危機感を感じてしまった。
これは必ずしも感じる「べき」というものではない。一般論としては、社会全体として専門の細分化は逃れられない。『銃・病原菌・鉄』を読んでいて、極端な話、狩猟採集の時代の人々以降の全ての人類の一人ひとりは一人前になり得ることはなく、だから(分業という形態を得たから)人類は進化したのだという印象を改めて持つ。現代の人っ子一人が社畜から有望企業の弱小な取締役になっても、社会全体の中で一部しか知らない未熟者というレベルは越えない。
……のだが、後はどう自己認識上けじめをつけられるかという程度問題になる。程度問題にしたときに、単に前職の段階ではわたし的には十分でなかったんだろう。コンプレックスの表出としての簿記の勉強というのは間違いなくある。
○ 前のめりに暗澹とした状態に飛び込んでいく印象
少し遠目に見ればわかるが、一歩立ち止まって「幸せってなんだろうね」というそういう立ち位置と全く相容れない暗中模索の中での疾走が続いている。上記の思考に対して「そこまで考える必要はないんじゃないか」というツッコミを入れられることもあり、それは非常に妥当な意見だという気もする。
全く離れた話だが、理性的にすべての物事に当たろうとするのは、個人的には非常に筋が悪いアプローチだと思う。ある種の与えられたフレームワークをそのまま受容して幸せであればそのほうが非常に手っ取り早く、逆に全てを理性で捉えられるのだと気負うと、ゴールに到達する前に大変残念な結果になるか、壮大に貧弱なゴールにたどり着く。なお、多分これは少し前に読んだヒルティ『幸福論』の受け売り。
○ そして当座考えるべきことは余り数ヶ月前と変わらない
飯食えるあてがとりあえず必要ですし?(・ヮ・`) 生活大事です? (・ヮ・`)
○ やけに彼女が欲しい云々うるさい
根本的な原因は「私は人並みの生活を送れてるでしょうか」という、ある意味での自己受容の問題なんだと思ってる。
私は自分に自信をもつことがあまりないから、歪な自己評価がそのまま対人関係を始めとする方向での不備と組み合わさって、こういう(彼女とかいう)話に対する落ち着きが無いという結果になるのだと思っている。
○ 簿記がやばい。原因は本業だ
3級と同じテンポ感で動かしてたのだが、2級というのは分量約2倍で、年齢もあるのだが忘れる速度もそれなりに早く、だから復習もあまり進まず、という循環が起きている。目標2月に実戦形式だったところ、まだ復習1周めが半分か。やばいなぁ。
受けるよー、という話をしたらどうにもうちの姉であるとかは、こういう試験に限っては私が「落ちるほうが驚くわー」という反応をすることが多く、割と困る。落ちるときはおちるんだぜ。
何が問題かというと案外最近本業の方でヤバイ件を最優先で処理していたからで、そちらがテンポ的に予定より少し早い感じで進んだ壮大な犠牲として他の、こういった下準備的なものが遅れた。
○ 本当の課題は営業
最初の件と同様、一人前感のなさがコンプレックスを形成するというのが私の人生の大方のパターンで、最近比較的恐ろしいのは営業出来ない自分という話のようだ。
いや、ま、例えば人と会うことが全体として営業であるというのはあるんだけど、例えば自分がやっている仕事が潜在的なお客さんにどう良い影響を与えうるかとか、そういうことをそれとなく伝える能力がゼロ。金を奪うという意味における営業の話をしたいわけではない。自分がやっていることを適切な強度で伝えるという能力がないか、足りない。結果として、オーバースペックな期待を勝手に持たれるか、何もないか、に終わる。
○ 余裕をもつべきなのだが
某氏 (男) を飯に誘うというのがあったとき、ふと「このテンションで女性を誘えるだろうか?」という問を自分でしかけて見込みが薄いのを再確認した。
何が問題かというと、上記に関係してかなり気負う性分が強いのがまずいんだと思う。何があるというわけでもなく。仮にやったとして、見た目だいぶ落ち着きが無いように見えるに違いない。それは誰にとっても高評価にはなるまい。
このあたりは「何故」を繰り返せば何がまずいのかわかるはずだし対策のようなものもありえるだろうが。
○ そう自分で考えるほど酷い戦績ではないはずだが
最大の問題は自己評価が低いから評点付けるとマイナスウン十万点になるというところなんだろうと思う。「そこまでひどくないよw」と言われるくらい自分で自分の採点つけるとすごいことになるらしい。それでは(売り込む性質の)営業は無理だ、という話になる。でも営業的なコンテクストで、害悪としてでなくうまく自分の能力を売り込む性質は結局単体で仕事を取り込むには必要だから、どうにかするしかない。
○ というか良い会社を辞めちゃったじゃないか
そんな能力がなくてもうまくいくという状態を自分で離れて何を言ってるんだろうね。
すごいジレンマは、私の考えだと前職では自分が望んだ全体像にまず到達し得ないという気分になってしまったことなんだろうな。悪い言い方をすれば、スペシャリストというのは必ずある種いびつなんだということに、そっけなくいられるかいられないか、というのが重要で、結果としてその場所に長く留まるのに危機感を感じてしまった。
これは必ずしも感じる「べき」というものではない。一般論としては、社会全体として専門の細分化は逃れられない。『銃・病原菌・鉄』を読んでいて、極端な話、狩猟採集の時代の人々以降の全ての人類の一人ひとりは一人前になり得ることはなく、だから(分業という形態を得たから)人類は進化したのだという印象を改めて持つ。現代の人っ子一人が社畜から有望企業の弱小な取締役になっても、社会全体の中で一部しか知らない未熟者というレベルは越えない。
……のだが、後はどう自己認識上けじめをつけられるかという程度問題になる。程度問題にしたときに、単に前職の段階ではわたし的には十分でなかったんだろう。コンプレックスの表出としての簿記の勉強というのは間違いなくある。
○ 前のめりに暗澹とした状態に飛び込んでいく印象
少し遠目に見ればわかるが、一歩立ち止まって「幸せってなんだろうね」というそういう立ち位置と全く相容れない暗中模索の中での疾走が続いている。上記の思考に対して「そこまで考える必要はないんじゃないか」というツッコミを入れられることもあり、それは非常に妥当な意見だという気もする。
全く離れた話だが、理性的にすべての物事に当たろうとするのは、個人的には非常に筋が悪いアプローチだと思う。ある種の与えられたフレームワークをそのまま受容して幸せであればそのほうが非常に手っ取り早く、逆に全てを理性で捉えられるのだと気負うと、ゴールに到達する前に大変残念な結果になるか、壮大に貧弱なゴールにたどり着く。なお、多分これは少し前に読んだヒルティ『幸福論』の受け売り。
○ そして当座考えるべきことは余り数ヶ月前と変わらない
飯食えるあてがとりあえず必要ですし?(・ヮ・`) 生活大事です? (・ヮ・`)