評論おじさん
ソフトウェア開発者に限らないと思うが、なんやらかんやら、自分の関与できる・できない事柄について、地に足のついていない評論を行う人を目にする。ここではジェンダーに関する議論は一旦おいておいて「評論おじさん」と表現する。 ※ 経験上、実際男性の方が多く有害だが、女性で類似の問題を有する人がいないとは限らない。ただ、その場合もここで表現する「評論」とちょっと違う匂い・トーンが見え隠れするように思える。本議論ではこの匂いの微妙な差までは論じない。ここではこの匂いの微妙な差までは論じないものの、問題視したくなる傾向がより強い「おじさん」の方を意識して問題視したいので、「評論おじさん・おばさん」と併記もしない。 古くは新聞やニュース番組、スポーツ番組であーだこーだ言うというのは私の父親世代を見ていてあるあるだった。父親と言わないまでも、プラス10歳くらいの人、あるいは私も中年なので私の年代で「評論おじさん」というのはいる。 概ね、何某か社会で足のついた経験があるのが普通で、そうでない若者の戯言とはちょっと違う。若者の戯言は、たまに社会を動揺させるほどの大変容を感じさせつつ無謀で無思慮の印象が先行するのに対して、評論おじさんの評論は、一見して正しそうに見えることが多い。わかりやすいこともある。 問題は次にある。ひとしきり唸ったものの、次のような問に対し その評論となる根拠は実際に評論対象の領域について当てはまる確信があるのか、あるいは、他の分野の経験に基づく推論や、あるいは完全なる受け売りであって、確信の度合いと言うと大したことがないのか 評論の輪郭をよりくっきりさせた際に成立するのか。例えば「バランスが大事」と言ったとき、対象領域の「バランス」とはどのような具体的な姿をとり得るのか、その「バランス」を達成する現実的な方法が(その論者が出来るべきとは言わないまでも)一般的な供給において蓋然性高く実現できるのか その評論が導く結果に身銭を切れるのか、あるいは身銭を切って成功するのか 私が経験した事例では、妙に色々持論があってそれ自体は説得力があったりあるいは「オーラが感じられ」たりするものの、その意見のとおりに当人がプロジェクトを推進して、肝心の「顧客の期待に応える」ことがてんでできないというケースを見たことがある。 あるいはプロジェクトに問題があったときに、その手の「おじさん」が...