『遠い夜明け』

遠い夜明け - Wikipedia

きっかけは以下のツイート

#以下では、現代では潜在的に差別表現かもしれない「黒人」といった表現をそのまま使う。自分の分かる範囲で配慮はしているが、微細な問題についてはご容赦願いたい。それを恐れるとメモ書きも出来ない。なお、表現等の問題を指摘いただくのは勉強の観点から歓迎である。

1987年制作ということでアパルトヘイトの撤廃前の作品。撮影場所ジンバブエというと良くないイメージがあるのだけど、ちょうどこの頃から悪名高い体制に変わったのか。うーん

正義が勝つ的な綺麗な起承転結ではなく、当時の現在進行形の問題に焦点を当てている。現代的にはアパルトヘイト自体はとっくの昔に撤廃されているということもあるので、今の時代の自分から見るとその点では安心感は一応ある。発表当時と異なり、一応の「結」を今の人は知っている。

とは言え、今でも偏見差別の問題が特に消滅しているなんてこともない。現代にも存在する共通の重苦しい雰囲気を感じ取れて、特に本編の前半は見ていると非常に息苦しくなる。もし自分が主人公のドナルド・ウッズとして同じ場所・時期にいたとしたら、主人公のようには動けないだろう。実に弱い。

特に前半の黒人差別と「白人差別」の部分で、ビコが白人と黒人に対してする主張には目からうろこが落ちる思いがした。歴史の教科書等で学ぶ人種差別問題の説明とは受ける印象が異なる。

ビコは単に差別的政策を問題視するのみならず、その結果傷つけられた黒人の尊厳を黒人が自ら回復することを重要視した。本丸は差別される側の自己意識を健全化させることだ。逆の状況(黒人が白人に差別的態度で接する状態)になるという本末転倒な動きは許さないし、手段が何であってもいいとは主張しない。

白人が黒人に対して意識できていない差別意識を認識させるのに熱心である代わりに、報復としての暴力は黒人にも求めていない(「禁止」したかまでは分からない)。このあたりは非暴力・不服従という言葉を連想させるが、ビコの態度は「不服従」ではなく黒人の復権に力点を置いている気はする。黒人に対しては、白人を恨むことではなく失った主体的な意識とでも言うもの (「尊厳」とかのほうが分かりやすい?)を回復するよう演説等で主張しているように見える。

白人側の態度はある意味、他の典型的な物語作品で見るようなもので、チープだが普通に怖い。白人として黒人側の主張を擁護する形になったウッズは、問題を警視総監に訴えたら(こちらは暴力的に)警察全体から報復される。礼状もないのに黒人のカルチャーセンター襲撃の目撃者を言えとせまられ(目撃者は警察関係者が襲ったことを見ていた)、家に銃撃をしかけられ、自らもビコと同じ軟禁処置を受け、最後には亡命する (蛇足だが亡命が成功するまでの流れは本編の問題提起と比べると少し見劣りがする)。

別のシーンで、警察は白人記者ウッズに対して「こちらには法があるのだぞ」と言う。ウッズは「こちらには正義がある」と言う。当時の南アで強かったのは正義ではなかった。

ビコが弁護人?を務める法廷シーンで、白人が「お前は演説で黒人と白人の対立をあおっている。これは暴力ではないのか」といった主張をする。ビコは「この法廷で俺ら対立してるけど暴力が使われているか?」といった返答をする。ちなみにこの法廷の前に白人の一人はビコを拘束し、ビンタしてる。

物語の中での白人は全体的に「白人は黒人を導いている」という態度で臨むのだが、そもそも物語の前半部で、ビコはその態度が根本的に偏見なのだということをしれっと伝える。
(原文ママ。同咳 -> 同席)

この部分で、自分は2つの方向性を見て取れた。1つは「白人は問題を意識出来てすらいない」ということ。もう一つは「黒人はその状況に慣れすぎている」ということ。白人には前者を伝え、黒人には後者を、ビコは巧みに伝える。ただしビコ自身は、しょうもない白人の暴力で命を絶たれてしまい、真実も、白人ウッズなしには暴かれようのない状態となった。物語での最大の救いは、この有力な現地新聞の人だったウッズが実際に亡命でき、『ビコ』という著書を公開し、本映画も公開され、それら自体がこの問題解決のカードになったということだと思う。

この話は全て事実というわけだから、当時の南アでアパルトヘイトを公にdisるのは実際大変だったということは良く伝わってくる。ビコの側につくことにした本編の主人公ドナルド・ウッズの行動力も計り知れない。

映画の最後には、アパルトヘイトに反対した活動家が勾留中に死亡した際の死亡年月日と、公式(白人側)から発表された死亡理由がテロップで流れる。これも良い風刺になってる。1987年に映画が出たためそこでテロップが止まる……のではなく、「1987年6月11日に非常事態令が発令されて政治犯に関する消息は発表されなくなった」のだそうな。

流れる80人の名前の中にビコの名が登場するが、気をつけなければ見落としてしまうそっけなさだ (強いて言えば死因が一人独特なため、それで目につく)。この映画も上記ツイートがなければ一生お目にかからなかっただろう。


以下蛇足

アフリカ英語というのか、バイオ5を思い出させた。その中に英国英語訛りの白人の発言が入る。当時ここまで英語が浸透しきっていたかは良くわからない。ウッズが神父に変装しているとき一度だけ全く聞き取れない訛りを使ったのだが、あれは…… (劇中でパスポート記載の神父が北欧のどっかの人という設定を聞いてウッズが笑っていたから、多分そこから来てる。でも聞き取れない……)

以前から、自分は英語の訛りをあまり好ましく思っていなかったのだが、最近は聞き取れる前提さえあれば、むしろ訛りは文化背景というか、その人の成立そのものを感じ取れて好ましいとすら思えてしまう。今回について言えばアフリカ英語の感じは(バイオ5のせいもあるんだけど)割と心地よい。聞き取ってくれさえすれば、日本語訛りもそのように認識されることもあるのかもしれない。いやただ、一部の発音は本当に聞き取れないらしいので矯正は必要なんだろうけど。

ある意味ではフルスロットルのアメリカ英語が一番個人的には厄介。メジャーだという自負があるのか、歪んでても容赦もないのだ。

ストリーミングの都合で日本語字幕しか選べないため、それで見ていた。英語を聞いていると、実は親しい人は「ビコ」とは呼んでいないことに気づく。みなは通常「スティーブ」と読んでいるように聞き取れる。ただ、ビコを悪人・黒人として際立たせるときに、どうもフルネームや「ビコ」を使っているような印象が少しあった(勘違いかもしれない)。仮にそういうニュアンスがあったとしても、日本語字幕では全て「ビコ」になっているので、伝わらないだろうと思う。

「白」「黒」という表現の二項対立で見て良い問題ではない (ちなみに物語中の表現を使えば「色的にはピンクと茶」である。ピンクは、まぁ裁判官が紅潮してたからだけど)。『ホテル・ルワンダ』をもう一度見たくなった。

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