次世代のための家

実家に帰る機会があった。

姉が先日子供を産み、実家では暫くの間、私の実の両親も協力して面倒を見ている。姉の出産祝いが遅れていたので、私はそれを届けるために帰った。姉は見るからに「お母さん」だった。

電話口からでも「おばあちゃん」になった実母は少し疲れていたように聞こえていた。実際に会って色々聞いてみれば、まんざらではないようだ。

まだ姉の子は言葉を喋れない。そのうち成長したその子に併せて、自分も実母を「おばあちゃん」と自分も呼ぶ時が来る。改めて見てみると、親はどこからどう見ても「おじいちゃん」「おばあちゃん」の雰囲気だ。

赤ちゃんは泣くのが仕事。泣き出すタイミングを実家の誰もがなんとなく察する。タイミングが近づくと、実家は全て赤ちゃんのものになった。

そこは自分の実家だが、自分の家ではない気配がした。長らくその家で主人公の一角だった自分は、いつか「お年玉をくれるおじちゃん」になる。それはその子がいるときだけであるにしても。ところで親戚もこぞって子供を生んでいる。

次の世代がいる場合、自然な家庭なら視線はそちらに向く。向いた時には自分はそこでは脇役以上ではない。主役でなくとも焦らない余裕は必要だ。でも恥ずかしいことに、自分は少し焦りを感じている。

誰も読むこと無く、紐で縛られたままのドラえもんの単行本を紐解いて読む。気づくと「あの子はいつ読むようになるだろうか」と考えていた。

めでたい話なんだがなぁ。

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