「じじい」と「ばばあ」のサービス
自分の勤め先の近くに、とある牛丼チェーンがある。ストライキが起きた某チェーンではない。
この店に私が密かに楽しみにしている店員がいる。ここでは「じじい」と呼ぼう。実際、60を間違いなく越しているご老体だ。
この人を自分が好む理由は単純だ。食券を受け取ったとき、まるで古い居酒屋のような勢いで「ぎゅうどーんいっちょぉー!」と威勢よく叫ぶのだ。このように威勢よく発生する店員は、こういう店には滅多にいない。
やはり自分の勤め先の近くに、ある安めの居酒屋チェーンがある。ブラックと名指しされるあの企業系列では多分ない。
この店にも、私が密かに楽しみにしている店員がいる。ここでは「ばばあ」と呼ぼう。実際、50前後かそこらへんに見える女性だ。
この人を自分が好む理由も単純だ。非常に良い意味でへりくだる。旅館の女将ほどではないが、程よく古い定食屋の老店員である。「申し訳ありません。またよろしくおねがいします。」そういう言葉がいつも出る。言葉にカドがない。安心できる。
この「じじい」と「ばばあ」の趣が、私にとって最近感じられなくなってきた。
自分側の変化である可能性もあるが、そうでないとして考えてみると、各店舗のシステムの変化に鍵があるのではないかと思う。
「じじい」のお店では自動化が徐々に進んでいるようだ。本件と関係なく大分前の話だが、あるときからこの店では、ご飯は店員がよそうのではなくて専用の機器からもりもり出るようになった。実際、衛生面や「米が潰れない」といった配慮があれば、機械で盛り付ける方が速いし量も均一で、人の髪などが入る余地も少なくなるだろう。
またおそらく(予想だが)、自販機と店内のシステムは連結しているから、本当は店員が威勢よく声を上げる必要は一切ないはずなのだ。多分食券の半券を切る必要もなく、中で粛々と牛丼を作り始められるのだと予想している。
別のチェーンだが、買った瞬間に店内で「ぎゅうどん、なみ!」と音声がする。そういう感じで、牛丼屋全体である種の合理化が進んでいるのがなんとなく感じられる。これはあくまで感覚だから、この「合理化」がどこまで進んでいるかは実際にはよくわからないのだが。
「ばばあ」のお店では最近、ランチタイムにセルフサービス制が導入された。「ばばあ」が「ようこそおこしいただきました」と券をとりにきて、ご飯と味噌汁とセットメニューの品を置きに来る代わりに、店舗の奥で待ち構えていて「セルフサービスになりましたので」と言う。口調は変わらないのに、何かたどたどしく感じる。
店員は配膳をしない。食器の片付け(これもセルフサービス)を手伝うだけだ。海苔やタマゴは一箇所にまとめられ、テーブルごとに手に届く範囲にはなくなった。取皿も同じ。
これらのシステムの変化と本当に関係するかわからないが、この二人の「少しいい感じ」の裁量が、効率化を求めるチェーン店では生きなくなってきた気がした。
代わりに営業成績が向上しているのは事実なのだろう。実際、「ばばあ」のお店で各テーブルにタマゴ等があるのは、自分も効率が悪そうだと思ったことがある。取皿はテーブルごとに少数置いてあったから、良くテーブルごとに不足があって、「もうしわけありません」と「ばばあ」が丁寧に追加の皿を持ってきていた。今はこれがほぼ必要ない。拠点防衛に徹すれば良い。
でも今日、海苔が切れてたけどね。
この最適化によって、店員は敢えて自分の裁量で客と接する必要性がさらに減る。多分、人付き合いが少々苦手でも出来る程度に人との接触が減る。
自動化とバッチ処理の勝利だ。品質は変わらず、安さも担保できるだろう。
ただ、以前ほど、この二店舗に足を運びたくはなくなった。そして「じじい」と「ばばあ」を懐かしく思ってしまった。
いや、いまでもこの二人は仕事をしているのだけど、悪い言い方をすれば「いてもいなくても大差がない」気が、最近している。
ヘタをすると、全自動で配膳されても驚かない自分が心のどこかにいる。話は違うが、ラーメンチェーンにそれに似たような、店員が見えないシステムはあったと思う (店員がいて配膳はしているのだが、のれん越しで顔が見れない)。
もういっそ、監視するだけの店員が統合されたシステムの制御センターにちょこんといればいいのでは、と思う瞬間がある。
以前は「それは情緒無さすぎで潰れるだろ」と思っていたのだが、食事の提供方法がこれだけ機械的な作業に終始している状況だと、後は「人のほうが低リスクか、機械のほうが低リスクか」という話になってしまうのではないか、と思う。
「人と機械のどちらが単価で安いか」ではない。「ストライキを起こすか起こさないか」が事実上のコスト算定に跳ね返るということが重要になる。
Amazonの配送準備に人が介しているか介していないかを、末端の消費者はあまり気にしない。ただしサービスが唐突に止まるのは困る。それは、消費者として飯屋に行く時もあまり変わらない。
ランチの提供にそういう時代が来るのはもうすぐという気が少しする。まだ来なくてほっとするが、来ても驚かない自分もどこかにいる。
「ちょっと気の利いたサービス」はオプションとして提供しづらい。20円高く払うからもう少し愛想よくしてよ、というサービス形態は、それ単体ではちょっと難しい気がする。値段は配送コスト、訴訟リスクその他で決まる。
TVシリーズの孤独のグルメのどこかで、井之頭五郎は「この街は、チェーン店が少ないから、落ち着くのか」と自分に語っていたが、自分もそれと似た気分を「じじい」と「ばばあ」のサービスの衰退から少し感じ取ったのかもしれない。
しかし強いて言うなら、この話に結論はない。安いほうが良い。
この店に私が密かに楽しみにしている店員がいる。ここでは「じじい」と呼ぼう。実際、60を間違いなく越しているご老体だ。
この人を自分が好む理由は単純だ。食券を受け取ったとき、まるで古い居酒屋のような勢いで「ぎゅうどーんいっちょぉー!」と威勢よく叫ぶのだ。このように威勢よく発生する店員は、こういう店には滅多にいない。
やはり自分の勤め先の近くに、ある安めの居酒屋チェーンがある。ブラックと名指しされるあの企業系列では多分ない。
この店にも、私が密かに楽しみにしている店員がいる。ここでは「ばばあ」と呼ぼう。実際、50前後かそこらへんに見える女性だ。
この人を自分が好む理由も単純だ。非常に良い意味でへりくだる。旅館の女将ほどではないが、程よく古い定食屋の老店員である。「申し訳ありません。またよろしくおねがいします。」そういう言葉がいつも出る。言葉にカドがない。安心できる。
この「じじい」と「ばばあ」の趣が、私にとって最近感じられなくなってきた。
自分側の変化である可能性もあるが、そうでないとして考えてみると、各店舗のシステムの変化に鍵があるのではないかと思う。
「じじい」のお店では自動化が徐々に進んでいるようだ。本件と関係なく大分前の話だが、あるときからこの店では、ご飯は店員がよそうのではなくて専用の機器からもりもり出るようになった。実際、衛生面や「米が潰れない」といった配慮があれば、機械で盛り付ける方が速いし量も均一で、人の髪などが入る余地も少なくなるだろう。
またおそらく(予想だが)、自販機と店内のシステムは連結しているから、本当は店員が威勢よく声を上げる必要は一切ないはずなのだ。多分食券の半券を切る必要もなく、中で粛々と牛丼を作り始められるのだと予想している。
別のチェーンだが、買った瞬間に店内で「ぎゅうどん、なみ!」と音声がする。そういう感じで、牛丼屋全体である種の合理化が進んでいるのがなんとなく感じられる。これはあくまで感覚だから、この「合理化」がどこまで進んでいるかは実際にはよくわからないのだが。
「ばばあ」のお店では最近、ランチタイムにセルフサービス制が導入された。「ばばあ」が「ようこそおこしいただきました」と券をとりにきて、ご飯と味噌汁とセットメニューの品を置きに来る代わりに、店舗の奥で待ち構えていて「セルフサービスになりましたので」と言う。口調は変わらないのに、何かたどたどしく感じる。
店員は配膳をしない。食器の片付け(これもセルフサービス)を手伝うだけだ。海苔やタマゴは一箇所にまとめられ、テーブルごとに手に届く範囲にはなくなった。取皿も同じ。
これらのシステムの変化と本当に関係するかわからないが、この二人の「少しいい感じ」の裁量が、効率化を求めるチェーン店では生きなくなってきた気がした。
代わりに営業成績が向上しているのは事実なのだろう。実際、「ばばあ」のお店で各テーブルにタマゴ等があるのは、自分も効率が悪そうだと思ったことがある。取皿はテーブルごとに少数置いてあったから、良くテーブルごとに不足があって、「もうしわけありません」と「ばばあ」が丁寧に追加の皿を持ってきていた。今はこれがほぼ必要ない。拠点防衛に徹すれば良い。
でも今日、海苔が切れてたけどね。
この最適化によって、店員は敢えて自分の裁量で客と接する必要性がさらに減る。多分、人付き合いが少々苦手でも出来る程度に人との接触が減る。
自動化とバッチ処理の勝利だ。品質は変わらず、安さも担保できるだろう。
ただ、以前ほど、この二店舗に足を運びたくはなくなった。そして「じじい」と「ばばあ」を懐かしく思ってしまった。
いや、いまでもこの二人は仕事をしているのだけど、悪い言い方をすれば「いてもいなくても大差がない」気が、最近している。
ヘタをすると、全自動で配膳されても驚かない自分が心のどこかにいる。話は違うが、ラーメンチェーンにそれに似たような、店員が見えないシステムはあったと思う (店員がいて配膳はしているのだが、のれん越しで顔が見れない)。
もういっそ、監視するだけの店員が統合されたシステムの制御センターにちょこんといればいいのでは、と思う瞬間がある。
以前は「それは情緒無さすぎで潰れるだろ」と思っていたのだが、食事の提供方法がこれだけ機械的な作業に終始している状況だと、後は「人のほうが低リスクか、機械のほうが低リスクか」という話になってしまうのではないか、と思う。
「人と機械のどちらが単価で安いか」ではない。「ストライキを起こすか起こさないか」が事実上のコスト算定に跳ね返るということが重要になる。
Amazonの配送準備に人が介しているか介していないかを、末端の消費者はあまり気にしない。ただしサービスが唐突に止まるのは困る。それは、消費者として飯屋に行く時もあまり変わらない。
ランチの提供にそういう時代が来るのはもうすぐという気が少しする。まだ来なくてほっとするが、来ても驚かない自分もどこかにいる。
「ちょっと気の利いたサービス」はオプションとして提供しづらい。20円高く払うからもう少し愛想よくしてよ、というサービス形態は、それ単体ではちょっと難しい気がする。値段は配送コスト、訴訟リスクその他で決まる。
TVシリーズの孤独のグルメのどこかで、井之頭五郎は「この街は、チェーン店が少ないから、落ち着くのか」と自分に語っていたが、自分もそれと似た気分を「じじい」と「ばばあ」のサービスの衰退から少し感じ取ったのかもしれない。
しかし強いて言うなら、この話に結論はない。安いほうが良い。