個人の夢とか嗜好みたいなもん
すっごく子供の頃に「早稲田の学生は民放を選ぶ。東大の学生はNHKを選ぶ」なんていう話を聞いた覚えがある。当時は「えーなんでー」という感じで、民放の方が優れているのだと思っていた。では今その質問を改めて問われると、とりあえず二択ならNHKなのだけど、そもそも放送局に行くということについて色々と躊躇する方が先だと思わずにいられない。
少し前のとあるテレビ番組で、アイドルを夢見る女子小学生〜女子中学生を怪しいDVDに出演させるとかいう話があった。怪しいDVDの中身については興味の付きないところがあるもののここでは触れないこととして、個人的にはむしろ「え、そもそもアイドルとかいうのを目指すの?」とか思った。
特に最近のアイドル、日本でのアイドルと言えば、媚び方のマーケティングに特化した、能力という意味では個体に力のないグループレベルでの仕掛け、あるいは人としての能力よりは、舞台装置の一部として人を用いるという意味での演出面での工夫が個人的には思い浮かばれる。そういうのが売れるという事態は理解できなくもないのだけど、それに「憧れる」となるとやや理解に困る部分もある。つまり、俺なら薦めない。
小中女子という点から見てありえないと思うけど、アイマス見てそう感じるのならまだ理解できる。また、もう少しあり得るかもしんない線として、けいおん見てバンド始めるというのならまだわかる。どちらも仮想の偶像で、なんだかんだで一人ひとりのスペックは夢物語的に高いのが暗黙になっているから、つまり「わぁすごい」という反応にふさわしいといえばふさわしい。ちなみに脳内補完が必要かもしれない。千早とレディ・ガガをフィルタ無し、ガチでぶつけてはいけない
上の話で私が念頭においてるのは多分、アスリート的に秀でた能力がある状態になりたい・憧れたいと思うべきだという思い込みなんだとは思う。あるいは本来の意味での「芸能」を優れた形でこなす人こそそういう感情の対象にすべき、という偏見だろう。歌とか踊りとか単体で秀でた能力があるというのがあって、そういうのがある程度コンセンサスとして人々の間でも「すごいよね」と言えて、そういう「適切」と思えるような能力を備えて、そして有名になってトップスターになるべきだよね、という話。
ただ、秀でた能力ではなく共感しやすさとかに引っ張られて憧れる人というのは割と多くて、一方「秀でている」という基準が分からない段階というのは人生の中でも重要な時期に固まっているなぁとも思う (「秀でている」という基準などない、という主張を展開するケースは割ともっと後だろ)。そういうときには、無闇矢鱈に共感とか、男ならロックな言動に惚れたりする。上のケースを私のコンテクストで言おうとすれば、多分レディ・ガガは変だけど歌うまいよね、という評価を自分なりに下せるようになったのは最近で、多分中学生の頃なら「あの黒玉ねぎの服すげぇw」という方で尊敬していた。で、多分ポリ袋で自分で作ったかもしんない。このあたり、ボール紙を丸めて表面に銀紙を貼った剣を作って尊敬するゆうしゃ様の真似をするのに似ている。アイドルになりたい、という夢がボール紙の剣と同じとはとても言わんが、しかし危うさの方向性がそっちに近いと私は思いたくなるんだね
結論があるということもないのだけど、ここで自分で考えたいのは2つ。ひとつは上に描いた問題意識はそもそも妥当なのか。もうひとつは妥当だと仮定して、どこに線が引けるか。
見る側としてわーわーぱちぱちはどうでもいいんだけど、つまり「あれになりたい」という方向性で今の「アイドル」、あるいは何十年も存在していた意味での「アイドル」を目指すというのは、どうなんだ、と思ったわけ。
少し前のとあるテレビ番組で、アイドルを夢見る女子小学生〜女子中学生を怪しいDVDに出演させるとかいう話があった。怪しいDVDの中身については興味の付きないところがあるもののここでは触れないこととして、個人的にはむしろ「え、そもそもアイドルとかいうのを目指すの?」とか思った。
特に最近のアイドル、日本でのアイドルと言えば、媚び方のマーケティングに特化した、能力という意味では個体に力のないグループレベルでの仕掛け、あるいは人としての能力よりは、舞台装置の一部として人を用いるという意味での演出面での工夫が個人的には思い浮かばれる。そういうのが売れるという事態は理解できなくもないのだけど、それに「憧れる」となるとやや理解に困る部分もある。つまり、俺なら薦めない。
小中女子という点から見てありえないと思うけど、アイマス見てそう感じるのならまだ理解できる。また、もう少しあり得るかもしんない線として、けいおん見てバンド始めるというのならまだわかる。どちらも仮想の偶像で、なんだかんだで一人ひとりのスペックは夢物語的に高いのが暗黙になっているから、つまり「わぁすごい」という反応にふさわしいといえばふさわしい。ちなみに脳内補完が必要かもしれない。千早とレディ・ガガをフィルタ無し、ガチでぶつけてはいけない
上の話で私が念頭においてるのは多分、アスリート的に秀でた能力がある状態になりたい・憧れたいと思うべきだという思い込みなんだとは思う。あるいは本来の意味での「芸能」を優れた形でこなす人こそそういう感情の対象にすべき、という偏見だろう。歌とか踊りとか単体で秀でた能力があるというのがあって、そういうのがある程度コンセンサスとして人々の間でも「すごいよね」と言えて、そういう「適切」と思えるような能力を備えて、そして有名になってトップスターになるべきだよね、という話。
ただ、秀でた能力ではなく共感しやすさとかに引っ張られて憧れる人というのは割と多くて、一方「秀でている」という基準が分からない段階というのは人生の中でも重要な時期に固まっているなぁとも思う (「秀でている」という基準などない、という主張を展開するケースは割ともっと後だろ)。そういうときには、無闇矢鱈に共感とか、男ならロックな言動に惚れたりする。上のケースを私のコンテクストで言おうとすれば、多分レディ・ガガは変だけど歌うまいよね、という評価を自分なりに下せるようになったのは最近で、多分中学生の頃なら「あの黒玉ねぎの服すげぇw」という方で尊敬していた。で、多分ポリ袋で自分で作ったかもしんない。このあたり、ボール紙を丸めて表面に銀紙を貼った剣を作って尊敬するゆうしゃ様の真似をするのに似ている。アイドルになりたい、という夢がボール紙の剣と同じとはとても言わんが、しかし危うさの方向性がそっちに近いと私は思いたくなるんだね
結論があるということもないのだけど、ここで自分で考えたいのは2つ。ひとつは上に描いた問題意識はそもそも妥当なのか。もうひとつは妥当だと仮定して、どこに線が引けるか。
見る側としてわーわーぱちぱちはどうでもいいんだけど、つまり「あれになりたい」という方向性で今の「アイドル」、あるいは何十年も存在していた意味での「アイドル」を目指すというのは、どうなんだ、と思ったわけ。